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島津家中興の祖・島津忠良(日新公)について
亀丸城跡にある島津忠良(日新公)誕生地碑。
亀丸城跡にある島津忠良(日新公)誕生地碑。

島津忠良(日新公)誕生石。(右から二番目の石)。
島津忠良(日新公)誕生石。(右から二番目の石)。

亀丸城跡にある日新公の説明文
亀丸城跡にある日新公の説明文。

竹田神社にある島津忠良(日新公)の墓
竹田神社にある島津忠良(日新公)の墓。

島津忠良の墓の隣には、日新公を追って殉死した2名の武士の墓。
島津忠良の墓の隣には、日新公を追って殉死した2名の武士が
日新公を守るかのように葬られている。




島津 忠良(しまづ ただよし) 尊称は「日新公」



明応元年(1493年)― 永禄11年(1568年)を生きた薩摩の戦国大名で近世島津家中興の祖。号は日新斎(じっしんさい)。島津氏の分家・伊作島津家の出身(伊作は現在の日置市吹上町)。


永正3年(1506年)、忠良が元服し伊作島津家を継ぐと、永正9年(1512年)には、相州家当主の座も譲られ、忠良は若年にして阿多・田布施・高橋・伊作を領有する領主となった。新納忠澄という文武両道に秀でた人物から仏教・儒学・政治学など様々なことを学んでいた忠良は、人道を守り領民には善政を施したことで、領内外にその誉れが高まったという。


当時、宗家にあたる島津家は、第12代島津忠治、第13代島津忠隆が若年で相次いで病死。14代・島津勝久が宗家当主を継いだものの、政権基盤も弱く、各地の在郷領主を抑える力がなかった。この様子を見た分家の島津実久(勝久の義弟)は、薩摩国守護の座を乗っ取ろうと企んだ動きを見せる。


その動きに対し、焦った勝久は、大永6年(1526年)、英明の誉れ高かった伊作家当主の忠良に支援を求めると、忠良は国政委任を引き受け、同時に忠良は嫡男・虎寿丸(後の島津貴久)を勝久の養嗣子として送り込む。貴久が元服すると勝久は、貴久に正式に守護職を譲り、忠良にその後見を依頼。忠良の力により、伊作島津家は島津宗家を引き継ぐこととなった。


しかし、島津宗家の家督を狙っていた島津実久は当然この事態に不満を爆発させたのは言うまでもない。この後、家督を狙う実久と忠良・貴久父子との長期にわたる激しい抗争が続くこととなる。


激しい抗争の末、天文7年(1538年)から翌年にかけて、南薩における実久方の最大拠点・加世田城を攻め落とし、その後、紫原における最終決戦にも勝利した忠良・貴久父子は薩摩半島を平定し、貴久は名実ともに守護の座につくことが出来た。


忠良は、貴久が伊集院一宇治城から鹿児島城に移ると1550年に加世田に隠居。しかし実権は握り続けて、琉球を通じた対明貿易や、鉄砲の大量購入、家臣団の育成に励んだと言われる。また「麓(ふもと)」と呼ばれる城下町を整備、養蚕などの産業を興し、多くの仁政を敷いた。忠良はその後の島津氏隆盛の基礎を作り出したため「島津家中興の祖」と呼ばれ、大きな影響力を与える事となった。


また、忠良は「いろは歌(日新公いろは歌)」の創作でも有名である。「いにしへの道を聞きても唱えへてもわが行いにせずばかひなし」に始まる47首の歌で、儒教的な心構えを基礎とした忠良の教育論は、孫の四兄弟・島津義久、島津義弘、島津歳久、島津家久にも受け継がれることとなり、その後の薩摩独特の士風と文化の基盤を築いた(忠良はいずれも優秀な四人の孫を「総領の義久、武勇の義弘、智謀の歳久、兵法の家久」と高く評価している)。


いろは歌は薩摩藩士の郷中教育(ごじゅうきょういくいく)の規範となり、現代に続くまで大きな影響を与え続けた。


深く禅宗(曹洞宗)に帰依していた忠良は、永禄7年(1564年)加世田の地に保泉寺を再建。永禄11年(1568年)、77歳で加世田にて逝去。法名は梅岳常潤在家菩薩。

忠良の死後、7世住持の梅安和尚が忠良にちなみ寺号を「日新寺」と改めた。日新寺は明治2年(1869年)の廃仏毀釈により破壊され廃寺となったが、明治6年(1873年)に同地に竹田神社として再興され、忠良は現在に至るまで祭神として祀られている。


島津忠良逝去の地(別府城跡)
島津忠良逝去の地(別府城跡)。


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