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島津義弘 文禄・慶長の役での活躍
文禄4年(1595)島津義弘が栗野から帖佐へ居館を移した際の居館跡。
文禄4年(1595) 島津義弘が栗野から帖佐へ
居所を移した際の居館跡(御屋地跡)。
慶長11年(1606) にここを離れるまでの約9年間を過ごした。


稲荷神社(御屋地跡)
現在は稲荷神社境内等に使われている。

島津義弘を祀る精矛(くわしほこ)神社内にある「手洗い鉢」と「石臼」
島津義弘を祀る精矛(くわしほこ)神社内にある
朝鮮伝来の「手洗い鉢」と「石臼」。朝鮮出兵時に持ち帰ったもの。


朝鮮伝来の「石臼」
義弘が朝鮮出兵時に持ち帰ったと言われる「石臼」。





秀吉の九州征伐の前に敗れ豊臣政権に臣従したのちは、島津氏存続のために秀吉に協力的な立場を貫く。文禄・慶長の役のいずれも朝鮮へ渡海して参戦している。


天正20年(1592年)、秀吉の求めに応じ、文禄の役に出陣。小西行長や宇喜多秀家らと共に侵攻、晋州城を陥落させるなどの活躍を見せた(朝鮮滞陣中に嫡男の島津久保を病気で失うという悲劇にも遭遇している)。


文禄4年(1595年)、豊臣政権への反発によって乱れた家中を統制するために召還されて日本に戻り、出兵中の文禄3年(1594年)秋から翌年春にかけて行われていた太閤検地による算定の結果、薩摩・大隅・日向諸県郡のうち太閤蔵入地分などを除く55万9千石余が義弘の名義で与えられた。これは、それまで義弘が忠勤を尽くした功績を認め、実質的に島津氏の差配を委ねたものとみることができる。文禄4年(1595年)、居地を大隅国栗野から帖佐に移す。


2回目の朝鮮出兵となった慶長の役では、慶長2年(1597年)、藤堂高虎らの水軍と連携して朝鮮水軍を挟み撃ちにして大いに破り、敵将・元均を討ち取った。続く南原城の戦いにも参加し、諸将との全州会議に参加した後、忠清道の扶余まで一旦北上してから井邑経由で全羅道の海南まで南下。その後、泗川の守備についた。


慶長3年(1598年)の泗川の戦いでは董一元率いる明軍・朝鮮の大軍(島津報告20万人、諸説あり)を、7000人の寡兵で打ち破り、島津家文書では敵兵38717人を討ち取ったと書かれている。徳川家康もこの戦果を「前代未聞の大勝利」と評している。


秀吉の死により戦役を続ける意義が失われた日本軍は、朝鮮からの撤退を決定した。そして、朝鮮の役における最後の大規模な海戦となった露梁海戦でも、義弘は順天倭城に孤立した小西軍救出の為に出撃。明・朝鮮水軍の待ち伏せによって苦戦するも、明水軍の副将・ケ子龍や朝鮮水軍の主将・李舜臣を戦死させるなどの戦果を上げている。この海戦の結果、海上封鎖が解けたため小西軍は退却に成功、義弘の活躍により日本側の戦略目的は達成された。


帰国の際にも義弘は、小西行長らと一番危険な殿軍(しんがり)を務め、無事退却させることに成功。これら一連の義弘率いる島津軍の勇猛な戦いぶりから、明軍には「鬼石曼子(グイーシーマンズ:鬼島津の意)」と呼ばれて大いに恐れられたという。


義弘の朝鮮での功により、帰国後の慶長4年(1599年)、それまでの功績として島津領内に設けられていた太閤蔵入地など5万石の知行を加増された。また同年に剃髪・入道、祖父忠良の号「日新斎」にあやかり「惟新斎」と号している。


義弘の命により、文禄慶長の役での武運長久を願い、建てられた供養碑。
義弘の命により、文禄慶長の役での武運長久を願い、建てられた供養碑。
「経塚」(精矛神社内に置かれている)。



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